2023-12-28

Donation Report マウイ島の火事に寄せられた寄付金の活用報告

 

皆さん、私が8月にあげたマウイの火事についてのYouTubeビデオを覚えていらっしゃいますでしょうか。

はい、あの所々かんじゃってて、「顔出しで行くかどうか」でかなり悩み、一人会議をした結果、「被災された方々が直面している大変さにくらべれば、私の怖さや恥ずかしさなんて滅茶苦茶ちっぽけだぞ」と自分を奮い立たせ、「子ども達のためだったらどんな恥でもかきます!」と言って出させていただいたビデオです。 

最初は「50人くらいの方が観てくださるだろう」と思ってシェアしたところ、皆さんがシェアをしてくださったおかげで、想像をはるかに超える人数の方に観ていただく運びとなりました。

そうして数多くの方から温かいメッセージをいただきました。それもひとえに、シェアをしてくださった、心優しい皆さまのおかげです。

寄付をしてくださった方の中には、それまでゆかりのなかった個人の方で、30万円も振り込んでくださった方がいらっしゃったので、「もしかしたら振り込んでくださった際に間違って、ゼロを多く打ってしまったのかもしれない。三万円、もしくは三千円の間違いかもしれない。それなら27万円、もしくは29万7千円をすぐにお返ししよう!」と思って連絡をしたところ、

「金額に間違いはございません。私の口座で眠っておりました虎の子を起こしまして、『さあ~!君達が活躍する時が来たので、上岡さんの所で頑張るように』と送り出しました。」

と返事をくださいました。

それを読んで、涙がどーっと出てきました。 今でも出ます。

他にも「こちらの寄付は安佳里さんが、ご自身の日本の銀行口座からアメリカの銀行口座に移す際の手数料に充ててください」と気遣ってくださる方までいました。

私は寄付をしてくださった方々と、被災をされた方々を結ぶ、一介の橋渡し役に過ぎないのですが、そのような皆さまの優しいお心に触れる貴重な体験をさせていただき、大変ありがたい気持ちでいっぱいです。

沢山の方が「僅かな金額ですが」という言葉を添えて寄付をしてくださったのですが、どんな金額でも私にとっては、「僅か」ではありません。たとえ100円であろうと、皆さまが汗水流して得られたお金を、見ず知らずの私に委ねてくださったことに、いたく感動し、「これは一銭も無駄にはせんぞ」と思い、寄付金活用作業に精を出させていただきました。

火事から四ヶ月が経った今、その作業に目処が立ったので、皆さまに報告をしたく、こちらのビデオを作成いたしました。ビデオは3つのセクションから成っています。 

1) 拝受した寄付金額合計
2) 寄付先一覧
3) 寄付の例。寄付先からのメッセージ

この同じ地球(ほし)に生きる、同胞から同胞への温かいエール(寄付)がこのように行われましたよとシェアさせていただくことで、皆さまの心にも、温かいともしびが灯(とも)りますと、本望です。

2023-08-21

About the Maui Fires マウイの火事について



マウイ島の火事に対しての寄付先一覧 更新:2023-08-29(ハワイ時間)


「ポッドキャストを作成するときのように声だけで行こう」と最初は思っていたのですが、「このような大切なお話をするのに、そして最後にはマウイの方々のために寄付を募るのだから、顔を出した方が良いのではないか」と思い始めました。

でも「話しているところを不特定多数の方に見られる可能性がある」ということに対し、正直「怖い」という気持ちがあり躊躇がありました。しかし「アップカウントリーやラハイナの人々が直面している大変さにくらべれば、私の怖さや恥ずかしさなんて滅茶苦茶ちっぽけだぞ」「It's not about me; it's about us(これは自分のことじゃない、マウイの人々のこと)だぞ、あかり!」と思いました。 

ということで、最初だけ顔を出してお話させていただいております。

そしてこのビデオは何度もマウイに行ったことがあるという方よりは、一度も行ったことがないという方向けに、マウイの地理なども含めて作成いたしました。 

何度か撮り直しを重ねまして、「まだカミカミなところあるけど、時間がない。もうこれで行かせていただこう!『教師なので子どものことをどうしても考えてしまう』って二回言っちゃってるけど、発音が明瞭じゃないところあるけど、『完璧』目指してたらいつまでも発表できないし、それはこのビデオ作成のそもそもの目的である日本の方にマウイの現状を知ってもらうことから遠ざかっちゃうぞ」と自分を諭し、発表にいたりました。 

「シェアしてください」という気持ちと「あんまりシェアしないでください」という気持ちが未だに混在していますが、でも「マウイの方々のために、特にマウイの子ども達のために見てください!」と言いたいです。

子ども達のためだったらどんな恥でもかきますし、どんなに怖いことでもします! よろしくお願いいたします。 


 (以下は日本時間で8月26日午後18:30に書き込みました。) 

 想像を遙かに超える人数の方々に、上の動画を観ていただき、そして見ず知らずの私を信じて寄付をしてくださり、心奥から感謝の気持ちで溢れております。

寄付だけでなく、心優しいお言葉を添えて送ってくださった方々も多数いらっしゃいました。お一人お一人にお返事をさせていただきたいと思っております。まだお返事をできていない方もいらっしゃいますが、必ずいたしますのでしばしお待ちいただければ幸いです。私は月曜から土曜まで日中は教えており、皆さまに早急にお返事できないことを大変歯痒く思っております。 

私に直接寄付金を送ってくださった皆さまには、指定がある場合は指定の寄付先の領収書を、そして「あかりさんにお任せいたします」という場合は、私が選んで寄付させていただいた寄付先のまとめを、明記したものをお送りいたします(下記参照)。皆さまの大切な大切なお金がどこに行ったか、ちゃんと報告いたします。 

お任せされた場合は、どうして必ずしも一箇所に寄付せずいくつかに分けたかというと、そうすることで色々な団体に想いを馳せていただけるかなと思ったからです。「自分の寄付金の一部が家をなくした大学生の教科書代になったかな。一部は赤ちゃんのオムツになったかな」と想像したり、寄付金で購入された竜巻で家をなくした子どものお話を読んでいるマウイの子ども達の顔を思い浮かべたりして、少しでも具体的に皆さまの大切なお金の行き先を知っていただけたら、「寄付した甲斐があった」と思っていただけるかなと思ったのです。自分が飛ばした紙飛行機が降り立つところを見られると、充実した気持ちになれるように。 

皆さまの心遣いに、心から御礼申し上げます。

(下のサンプルではPacific Birth Collectiveさんが「半端もの」の行き場所になっていますが、彼女らにもちゃんとまとまった額を寄付しております。)





2023-03-16

Grandma, I’m home! おばあちゃん、ただいま!


At the end of last October, I returned to Japan for the first time in three years and stayed there for three weeks. 

Three flights after I left Maui, I landed in Matsuyama, where my parents live. Then I drove for an hour to grandma's straight from the airport. 

The sun was setting behind me as I entered the mountains. My jet-lagged mind was still groping with the fact I was finally in Japan, and as surreal as it was, I could tell my whole being was slowly coming to ease and breathing deeper. 

"Ahhh, I am home." 

I remembered the mountain road like I was there yesterday, parked my dad's car, carried my suitcase to the entrance, and opened the door with the key. It was the first time opening grandma's house with a key because she was always there when I went there. 

I searched for the light switch in the pitch dark with my open hand. The earthen floor of the house lit up. Accessing olfactory memory, I inhaled the air as much as possible and announced, "Grandma, I'm home!" as I always did. 

No one answered, but the 130-year-old home embraced me. 

I closed the door behind me, climbed to the raised tatami floor, found more light switches, and approached the traditional Buddhist altar where the memorial tablets for ancestors are kept. I bow to the altar, light an incense, ring the singing bowl, and put my hands together to report that I am finally back and thank them for my safe travel. 

For me, who had not been able to return to Japan for a while since my grandma’s death in the summer of 2020, seeing the house without her helped my mind and heart fully come to terms with the fact that she was no longer there. 

I found myself sobbing, but I was not sad anymore; I cried enough when she passed. The relief and comfort provided upon my long-desired return to her home located the last bit of tears that I had not been able to access until then. 

After I let her physical absence sink in, while feeling her love surrounding me, I looked up at the altar with a smile and said to her and the ancestors, "And I'm hungry!" 

Then I washed my hands and started eating a beautiful and nutritious bento dinner my mother had prepared (she had left it in the car for me). 

I sang a made-up song as I boiled water to make an instant miso soup, "I'm home, yay yay yay. I'm hungry, yay yay yay. I'm alive, yay yay yay. I'm grateful, yay, yay, yay!" hoping it would amuse the ancestors. 

I didn’t know the night at grandma's would be that dark and that quiet. It was the first time I had stayed there by myself. 

I took a hot bath and went to bed. Feeling securely nestled in the home built by my great grandpa, it did not take long to fall asleep. 

And I woke up to this view, filled with light. (See the photo above)

You can listen to this article's podcast episode at the following link.

The episode number is #10 for Japanese Language Learners and #11 for English Language Learners.


----------(Japanese)----------

昨年の10月の終わりに3年ぶりに日本に帰国し、3週間ほど滞在した。

 

マウイを発ってから三つ目のフライトの後、実家のある松山に降り立った。そのまま車で一時間の祖母の家に直行した。

 

市街地を抜け山間地に入ると、背後に太陽が沈んでいくところだった。日本にやっと帰ってきたという事実を時差ぼけの頭でぼんやりと咀嚼していた。「これは夢かしら?」と思う反面、旅の緊張がほどけ、呼吸が深くなっていくのがわかった。

 

「あぁ、やっと帰ってきた。」

 

祖母の家までの山道は、昨日来たみたいに覚えていた。借りた父の車を駐車し、スーツケースを降ろして、玄関まで転がしていく。そして鍵を手に、玄関を開けた。祖母の家の玄関の鍵を開けるなんて、初めてのことだった。だって私が行くときは、祖母はいつも家にいたから。

 

空いている手で電気のスイッチを探す。土間に光が差す。

 

祖母の家特有の匂いが脳みそと心の懐かしさの琴線に触れ、私は胸いっぱいに息を吸った。そして「おばあちゃん、ただいま〜!」と声に出して言った。

 

「おかえり」と言ってくれる人はいなかったけれど、築130年の家は私を包み込んでくれた。

 

玄関のドアを閉め、家に上がり、居間の電気を点ける。そしてご先祖さまたちの位牌のある仏壇に向かった。

 

一礼をし、線香に火を点け、お鈴を鳴らし、手を合わせた。無事に帰国したことを報告すると共に、その旅が安全であったことを感謝した。

 

2020年の夏に祖母が亡くなってから日本に帰国できていなかった私には、祖母のいない家を見たことで、祖母が死んだという事実に私の頭と心の中の現実味がやっと追いついた。次の瞬間泣いている自分がいたけれど、悲しくて泣いたのではなかった。

 

ずっと帰ってきたかった祖母の家にやっと帰ってこられてほっとした心が、この時までアクセスできなかった涙たちの居場所を見つけた。

 

祖母の不在という現実を受け入れ、そして体はなくとも今も注いでくれている祖母の愛に包まれた私は、仏壇のご先祖さまと祖母に、「わたくし、安佳里、お腹空きました!夕飯を食べさせていただきます!」と報告した。

 

手を洗い、母が作ってくれていた見た目も美しく味も素晴らしいお弁当をいただいた。

 

そしてインスタント味噌汁用のお湯を沸かす間、思いつくままに

「家に帰ってきました、イエイ、イエイ、イエイ

おな〜かすきました、イエイ、イエイ、イエイ

生き〜ています、イエイ、イエイ、イエイ

ありが〜たいです、イエイ、イエイ、イエイ」

といった具合に、ご先祖さまたちに聞かせるように歌った。

 

祖母の家の夜があんなに暗くて静かなことを知らなかった。祖母の家に一人で寝たのは初めてだった。

 

熱いお風呂に入って、布団に入った。ひいお祖父さんの建ててくれた家に包まれ、また時差ぼけも相まって、寝入るのに時間はかからなかった。

 

そして翌朝目が覚めたら、この光に包まれていた。(上の写真参照)


この記事のポッドキャストは以下のリンクよりお聞きになれます。

日本語を学ばれている方はエピソード番号10を、英語を学ばれている方はエピソード番号11をお聞きください。

2022-05-01

"You're already doing enough." 「もう十分やっていると思いますよ」 

 

I just found this photo of me in high school. I hadn't seen this before. This Akari looks pretty happy being in her element. 最近見つけた高校時代の写真。この写真の私は幸せそうだ。

「上岡さんはもう十分やっていると思いますよ。」 


そう言ってくれたのは、高校三年生のときの担任の先生だった。

保護者面談での母への言葉だった。 

高校二年生の後半から、私は登校拒否をしていた。きっと色々理由はあったのだろうけど、自覚していたものは摂食障害と、人が沢山いるところにいられなくなっていたこと。(生徒数の多い高校だったので、体育館に全校生徒が集まるときなどは、めまいと動悸がした。) 

「このまま高校の先生たちが言うように、四年制大学に進んで、仕事に就くだけが幸せになる道とは思えない。」

「このままコンベアーベルトに乗せられて、気が付いたら社会の歯車の一部になって、抜け出せないなんてことになるんじゃないか。」 

「もちろんこの世界の一員として私なりの貢献はしたい。でも私が本当に学びたいことは、どの大学のパンフレットにも書いていない。」 

「もう少しゆっくり考えたい。でも学校ではその時間は与えてくれない。」 

クラスメイトの中には「とりあえず大学に行ってから、何するか考える」という子もいて、「そうか、そういう手もあるのか」と思った。

「でも、大学はお金がかかる。はっきりした目標がない状態で入って、親に無駄なお金を使わせるわけにはいかない。」 

立ち止まる必要があったのだろう。それが登校拒否という形で現れていたのだと思う。 

でも学校に行っていないことに引け目や罪悪感も感じていて、摂食障害も辛くて、大好きな両親にも心配させて、「普通」じゃない自分を責めて、毎日のように泣いていた。

「明日こそは学校に行こう!」と決意を胸に床に入る。

起きたら「今日は学校に行くぞ!」と自分を奮い立たせ、制服に着がえ、朝食を食べ、行く用意するのだけど、いざ玄関に立つと、立ちすくみ、ドアノブを回せない。 

玄関にうずくまる私を横目に、弟が中学校に出かけていく。弟にとっては、「玄関でうずくまる姉」の図は、もう見慣れた光景だ。 

「弟が玄関を開けるときに一緒に出ていこう。名案だ。よし、そうしよう。」 

でも弟の背中越しの外の世界を垣間見て、ひるんでしまう。またうずくまる。 情けなくて泣けてくる。

「なんで自分はこんなことになってるんだろう。」 

父はその頃隣の県に単身赴任で、同じ屋根の下では暮らしておらず、週末は家族の顔を見に帰ってきてくれていた。 

母も父もそんな私を責めたてることもなく、寄り添ってくれ、母は私が持っていくかどうかも分からないお弁当を毎朝早く起きて、作ってくれていた。 

摂食障害まっただ中の私のお弁当箱は、園児が使うものだった。 

「これで足りるの?」 と母が一度聞いたことがある。 

「足りる!」私はそれ以上聞かないでと言わんばかりに言い放った。 

きっと「色々言って食べなくなるよりはまし」とでも思ったのか、母はその小さなお弁当箱に入るだけの栄養のある食べ物と愛をぎゅうぎゅうに詰め込んでくれた。(それだけはいつも完食していた。) 

(ちなみにそのお弁当箱を、私はマウイに持ってきている。普段料理の残り物などを保存するため、使っている。) 



時々玄関の外に出ることに成功し、鉛のように感じる自転車のペダルを漕いで、片道自転車で20分の道のりの半分ほど行って、どうしてもそれ以上進めず、途中で情けなさに泣きながら帰ってくることもあった。

母はその度に高校に電話をして、「体調が芳しくないので、お休みします。」と連絡をしてくれていた。(しないと無断欠席になるので。) 

ある日は何とか学校まで辿り着くことができたのだけど、足はペダルを漕ぐことをやめず、そのまま校門を通り過ぎてしまった。「ありゃりゃ」と思ったけど、もう時は遅し。あまりにも気持ちの良い天気だったのだ。あんなに外の空気を気持ちよく感じたのは久しぶりだったので、そのまま高知市の鏡川沿いに伊野の方へ向かって走り、手頃な土手の原っぱを見つけて、そこに寝そべった。 

季節はいつだったのだろう。覚えていない。私は花粉症もちだけど、くしゃみをしていなかったから、春ではなかったのだろう。あまりにも青空がきれいで、風が気持ち良くて、花が咲いていて、仰向けで雲が流れていくのを見ていたら、そのまま空に吸い込まれていくような気がした。草の匂いが心を落ち着かせてくれた。

その日遅刻はしたものの、学校には行けたのだ。

高校生時代は、新体操をやっていた。過度な体重コントロールがきっかけで摂食障害に。I did rhymic gymnastics in high school. The strict weight watch triggered my eating disorders.


担任の外裏先生は、髪を短くまとめてある、その年代の女性にしては背の高い、国語の先生であった。先生のきれいな字を今でも覚えている。

「はらい」、「はね」、「とめ」がしっかりと見受けられる一文字一文字が、黒板に書かれていく様を見るのが好きだった。それだけでも心が落ち着いた。

外裏先生は好きだったけれど、三年生になっても相変わらず私は登校拒否をしていた。勉強は好きだった。ありがたいことにステキな友達もいたし、いじめがあったわけでもない。ただ、どうしても行けなかった。

当時のクラスメイトのみんなに申し訳なかったなと思うことは、卒業アルバムのためのクラス毎の写真撮影だ。欠席者がいるクラスは、撮影が延期されるのだ。きっと一生残る写真のため、みんな髪の毛をセットしたり、それなりに普段よりも気を使って登校していた子がほとんどだと思う。それなのに私が欠席のため、延期されるのだ。それが一回ではなく二回ほどあったらしく、それを後で知ったとき、申し訳ないことをしたと思った。

私は「きっと写真の右上か左上の方に自分の顔だけ載るのだろう」くらいに思っていたのだ。「それも目立ってイヤだけど、学校に行けないのだから仕方ない」と。

万が一、高知県立高知西高校(2001年卒業)の、外裏先生のクラスであった方がこれを読まれていたとしたら、この場を借りて「何度も空振りさせて、申し訳ありませんでした」とお伝えしたい。

高校生活も残りあと六ヶ月というところで、「高校を退学しよう」と決断した。

毎朝の葛藤に疲労困憊していた。大学に行きたくなったら、大検を取ろうと思っていた。

ストレッチ中 Stretching


そんなとき、私が通っていたスガ・ジャズダンス・スタジオの國友須賀先生に、「あかり、あとちょっとやんか。高校終わったら、マウイにおいで。そのかわり、高校卒業しておいで。」と言われた。

「マウイ」 


どこにあるかさえ知らなかった。 

 でも、なぜか「そうしよう!」と思ったのだ。

それから私は目の前に人参を吊らされた馬のごとく、マウイを目の前に吊らして、ただただ「私は卒業したらマウイに行くんだ」ということだけを考えて、何とか高校を卒業した。

今日のところは結果だけ伝えると、マウイ島は私の摂食障害を癒やしてくれた。あのとき、マウイに来て本当によかったと思う。

(高校のときの話に戻ります。) 

卒業すると決めたものの、そのためにはあと一踏ん張りも、二踏ん張りも必要だった。成績は大丈夫だったのだが、出席日数が危うかった。

そんな私のために、外裏先生は一緒に教科毎の出席日数を計算してくださった。「この教科はあと4回休めるけど、この教科はもう休めませんよ。」などと教えてくださった。

翌日の時間割を毎晩念入りに見て、もう休めないと言われた教科がある日は、這ってでも行くつもりだった。

どんなに大変でも行こうと思えるようになっても、学校に行くこと自体が楽になったわけではなかった。どうしても行かないといけないのに玄関で足が凍り付いてしまう日など、母はタクシーを呼んだ。

そうなったら、せっかくタクシーが来ているのだから、家の前の道路までは出て行った。そして何とか後部座席に自分の重い体と心を押し込んだ。タクシーのドアが自動で良かった。

前述した通り、父は単身赴任で家にはいないし、母は車の運転ができないのだ。親にタクシー代を払わせていることに罪悪感を感じ、タクシーの後席でうなだれている私を、運転手は「何らかの理由で自分で登校できない子」とでも思っただろうか。

そして欠席を許されていない教科だけ取って、帰ってきた日などもあった。バスや電車に乗れなくなっていたので、帰りもタクシーだ。

早退するためには、担任の先生の許可がいる。 職員室にいる外裏先生に、「早退したいのですが」と伝えに行くと、先生は何も聞かずに「頭痛かしらね」と理由を考えて書いてくれた。ありがたかった。

二年生のときは、早退理由を色々聞かれたものだ。頭痛ではないのに頭痛と言うことに引け目を感じ、でも「家に帰りたいです」では通らないので、「頭痛で」とか「腹痛で」と嘘をつくのがいやだった。

外裏先生は、そんな気持ちさえも見据えたように、根掘り葉掘り聞かずに、当たり障りのない理由を書いて心の荷を一緒に背負ってくれた。

一度は、素直に「今日はもう限界です」と伝えたことがあったような気がするが、それは私の記憶違いかもしれない。とにかく、そう言っても分かってくれるような信頼を、私は外裏先生に寄せていたことは確かだ。もし本当に言ったとしても、きっと先生は「はい、分かりました」と言って早退届の紙に記入してくれたことだろう。

そんな中、母と外裏先生の保護者面談があった。

そして外裏先生は母に、 

 「上岡さんはもう十分やっていると思いますよ。」 

と言ってくれたのだ。 

 そして高校退学も思慮に入れていたことを伝えた母に、

「それも選択肢のひとつだと思いますよ」 

と進学校の先生にあるまじきことをおっしゃったらしい。ハハハ。 
(もっと好きになりました、外裏先生)

「上岡さんなら道を見つけていくでしょう」と。 

家に帰ってきた母がそれを伝えてくれたとき、私は泣いた。

うれし泣きのような、ありがた泣きだった。心が温かくなって泣いたのは久しぶりだった。 

「私を見てくれている人がいる」

そう感じた。 

 高校を卒業できたのは、外裏先生のおかげだと言っても過言ではない。(そしてマウイ行きを、「一度日本を出てみなさい」と提案してくださった國友須賀先生のおかげ。) 

他にも熱心なスクールカウンセラーの先生などいらっしゃたのだけど、外裏先生は淡々としていたのが良かった。「生徒の助けになるぞ!」と意気込んでいないところが、もう既にいっぱいいっぱいの私には強すぎない薬だった。

外裏先生の淡々とした中に溢れる優しさというのを私はしっかり感じたし、下手に手を回しすぎず、放任するところは放任して、でもしっかりと介入するべきというときは手を差し伸べながら見守ってくださった。

後日談として、外裏先生には2020年に急にご連絡を差し上げたくなり、卒業名簿にあったご住所にお手紙を書いた。何でもっと早く手紙を書こうと思わなかったのだろうと思いながら。先生がご健在であることを祈りながら。

そしたら、たまたま私の誕生日にお返事のお電話があった。何よりもの誕生日プレゼントだった。 

「外裏先生、私が今ここにこうしていられるのも、先生のおかげです。 

 『もう十分やっている』は私のお守りのような言葉です。 

 先生のように、ちゃんと人を見て、『あなたはもう十分やってるよ。』と言ってさしあげられる人になれるよう、精進してまいります。」 

と伝えられて、本当によかったと思っている。

新体操の練習で右手の小指を折ってしまった頃の写真。近所の子と。 With a neighbor's kid (I broke my right pinky doing the rhythmic gymnastics during that summer)

この記事のポッドキャストは以下のリンクよりお聞きになれます。エピソード番号は#8です。


----------(English)----------

"Miss Ueoka is already doing enough,"

said Mrs. Sotoura, who was my senior year's homeroom teacher.

She said it to my mom at a parent-teacher conference.

Halfway through my junior year, I was unable to go to school. There were probably a few reasons, and what I was aware of then was I had eating disorders and was not able to be around many people. (The high school I went to had 900 to 1,000 students, and once a week or so, we had a school assembly at the gym. Surrounded by that many people, I felt dizzy, and my heart palpitated faster.)

I was thinking:

"I don't think going to a four-year university and getting a good job is the only way to happiness like the teachers say."

"I wonder what would happen if I listened to them and followed their guidance without giving it any thought. Would I become one of society's well-oiled gears that I couldn't escape from?"

"Of course, I wanted to contribute to society even in a small way, but what I wanted to study did not seem to be written in any of the college brochures."

"I wish I could take time to think more, but the school doesn't give us any time to think by bombarding us with so many quizzes and exams."

Some classmates said, "I'll go to a college and then think more about what I want to do."
"I see, and that's one way to go about," I thought.

"But going to a college or university costs money, and I don't want to waste my parents' money by going without a clear reason."

I guess I needed to slow down, and the desire to do so seemed to appear as my inability to attend school, although I genuinely tried to go.

I cried every day, feeling badly - and guilty - for not going to school, dealing with eating disorders, making my dear parents worry, and blaming myself for not being "normal."

At night, I went to bed thinking, "Tomorrow, I will go to school!"

When I woke up, I said to myself, "Alright, here I go!" I changed into my school uniform, ate breakfast, and got ready. However, when I stood in front of the door, my legs got fixated, and my hand would not turn the doorknob.

My younger brother left for his middle school, passing by me who was crouching down. For him, my frozen stance was a familiar scene.

"Oh, I know! When he opens the door, I'll follow him and go out with him. Oh, it's a good idea. Yeah. I'll do that!"

But one glimpse of the world over his shoulder, and I winced and froze.

I sobbed, feeling pathetic, "What am I doing? What has become of me?"

My dad was living in the next prefecture on a company job assignment. (It's common in Japan for the rest of the family to stay behind and let children finish school - or for other reasons.) He came home over the weekend to see us.

My parents did not give me a hard time and held the space for me. My mom woke up early every morning to make lunch for me, although there was no guarantee that I would take it to school.

My lunch box was the size of a preschooler.

"Would this be big enough?"

my mom asked me once.

"Yes!" I answered adamantly as if to disallow any further inquiries from her.

Probably, she thought it was better than quarreling and making me not eat at all, so she packed as much nutritious food and love as possible in that small lunch box every morning. (I ate the whole thing every day even though I didn't eat much else.)

By the way, I brought the lunch box to Maui; I use it regularly to store leftover food and such.

Occasionally, I managed to get outside the door. I pushed down the bicycle pedal, which felt heavy as lead, and rode about halfway to school. Each way was about 20 minutes. When I couldn't go any farther, I turned around and came home crying, feeling defeated.

Then my mom would call the high school to let them know I would be absent that day due to my not feeling well. (Otherwise, it would be recorded as absence without notice, and it would be a problem.)

I managed to get to the school one day, but my feet kept pushing the bicycle forward and passed the school gate. "Oopsie," I thought. It was too late. It was a beautiful day, and I hadn't felt that good breathing in the air. So, I kept riding the bicycle along the Kagami River of Kochi-city, heading toward Ino-town. I found a nice field on the river embankment and lay down.

I wonder what season it was; I don't remember. I had hay fever, but I wasn't sneezing, so I suspect it wasn't spring. The sky was so beautifully blue; the breeze felt amazing; the flowers were blooming; and the white clouds were drifting. I felt like merging into the sky, and the fragrance of the grass comforted me.

Though I was late, I made it to school that day.

My homeroom teacher, Mrs. Sotoura, was tall for the generation's females and kept her hair short, and she was a Japanese language teacher. I still clearly remember her beautiful handwriting. I loved watching her write letters on the blackboard, executing each stroke intentionally and naturally; it was almost a zen-like performing art. Watching it had a calming effect on me.

I liked her a lot, but I still couldn't bring myself to becoming a regular attendee in my senior year. I liked learning and studying. I had wonderful friends. I was not being bullied or teased. I just could not go.

To all of my classmates back then - there is one thing I want to apologize for. For the graduation album, each class had to take a class photo. I didn't know this back then, but the photoshoot was postponed to the next day when someone was absent. I bet that most everyone came to school after setting their hair nicely because the photo would remain for the rest of our lives. And it happened more than once, apparently.

I thought my face would be cropped and pasted on the corner of the group shot, which stands out even more, and I wasn't fond of the idea, but I accepted it as I couldn't go to school.

If anyone in the class of 2001, in Mrs. Sotoura's class, is reading this, please accept my apology for possibly messing up your best hair day.

With only six more months left in my senior year, I decided to drop out of high school. I was exhausted by the daily morning struggle, and I thought, "I would take the GED test when I know I want to go to college."

Around that time, Ms. Suga Kunitomo, the founder of Suga Jazz Dance Studio, said to me, "Akari, you're almost done with high school. Come to Maui when you're done. But graduate first."

"Maui…."

I didn't even know where it was.
But for some reason, I thought, "Okay, I will go to Maui!"

Since that day, Maui became the carrot dangling in front of me, and I managed to graduate.

For now, to make a long story short, Maui helped me heal my eating disorders. I am so glad I came here (Maui) at that time.

(Now, back to the last bit of my high school days.)

To graduate, my grades were fine, but my attendance was on edge. Mrs. Sotoura sat with me, calculated how many times I missed each class, and told me, "You can miss this subject four more times, but you cannot miss this one anymore."

At night, I carefully studied the next day's class schedule, and if there was any class I could not miss, I was determined to go even if I had to crawl.

Deciding to graduate didn't make going to school any easier. When my legs froze in front of the door on a day I had a class I could not miss, my mom called a taxi.

When a taxi arrived, I barely managed to walk out to the road in front of the house and push my heavy heart into the backseat - good thing the taxi door opened on its own.

As I mentioned earlier, my dad wasn't home during the weekdays, and my mom couldn't drive. I felt guilty for going to school by taxi and making my parents pay for it. Seeing a young girl dropping her head down in the cab, I wonder if the driver thought, "She must have some reason that she cannot go to school on her own." I felt embarrassed, but no driver asked me any insensitive questions.

Somedays, I came home after attending the class that I could not miss anymore. Since I could not ride a bus or train back then (due to the crowd phobia), I took a taxi home.

I had to get a teacher's permission slip to leave school early.

Whenever I went to the teacher's lounge to tell Mrs. Sotoura, "I'd like to leave early," she offered a reason, such as, "Headache?" and wrote it down before I responded without asking too many questions. I was thankful.

In my junior year, the homeroom teacher had asked me many questions. I didn't want to say, "I have a headache," but "I would like to go home" was not good enough. So, I had to say, "I have a headache" or "I have a stomachache." And I always felt badly for making things up.

Mrs. Sotoura, on the other hand, carried the burden with me as if she saw through my dilemma.

There was even a time when I honestly told her, "I've reached my limit for the day." Maybe, it's only in my imagination, and maybe I did not actually tell her so, but the point is that I felt comfortable telling her and trusted her that much. I'm sure she said, "Understood," and filled out the permission slip for me.

Around that time, the end of the year parent-teacher conference was held. That's when Mrs. Sotoura said to my mom,

"Miss Ueoka is already doing enough."

She even said, "I think it's a legitimate option," when my mom shared that I contemplated dropping out of high school.

It was not what a college-prep high school teacher would usually say (which made me like her even more).

"I know Miss Ueoka will find her way."

When my mom came home and told me what was said, I cried. It was happy tears… grateful tears. It has been a while since I cried because I was happy.

"There is someone who sees me."

It's no exaggeration to say it was Mrs. Sotoura who made it possible for me to graduate (and the late Suga Kunitomo who suggested me to step out of Japan).

There were other teachers at the school, like the passionate school counselor, but I liked the simplicity of Mrs. Sotoura's approach. If someone had come at me and said, "I will help you!" I'd have run away. It was too much or too strong of a medicine. I could feel Mrs. Sotoura's kindness and gentleness in her matter-of-fact manner; she wasn't too much. She did not disable me by helping too much. She watched her students with a delicate balance of distance and stepped in when we needed it.

In 2020, I felt the strong urge to get hold of her, so I wrote a letter to her by asking my parents to look up her address in the graduation album while regretting that I had not done so sooner. I hoped she was still around and had not moved.

Then, I received a call from her on my birthday, and it was the best birthday gift.

I am so glad that I was able to tell her:

"Mrs. Sotoura, it's because of you, I can be here in this way.

Your words, 'You are already doing enough,' has been my amulet.

I will do my best to become a person who truly 'sees' like you do and tell others, 'You're doing enough.'"

You can listen to this article's podcast episode at the following link. The episode number is #8.